… 惹かれるな なんて。

一体誰から云われた言葉だったか。
下に組み敷いた白磁の肌を虚ろに見詰めながら、ふと思い出す。

上気する胸、僅かに濡れた眼、漆黒の髪はとてもつややかで、触れる度に絹をも思わせる。

其の身体すべてが、貴方を惑わすでしょう。
お気をつけなさい。
貴方は、其れに絡め取られない様、御留意の程を。

… 嗚呼 そうか。

頭巾の下に隠された表情なんて未だかつて見たこともない。
鋼鉄の防御の下には、もしかしたら、この子よりも何もない単なる空虚だけが住んでいるのかもしれない。





……… 無駄な戯言を。





xxx 戯言





珍客だ。
幾度か瞬きを繰り返して、そしてまた其れをなかったことにして、鳴海はいつも通りの傲慢な笑みを浮かべて見せた。相手に其れは通じない。しかし裏を掻かれてしまう惧れのある人外の存在になど、誰が甘んじていられようか。
「御久しゅう、探偵殿」
いつまで経っても聞き覚えぬ、そしていつまで経っても聞き慣れぬ声がいきなり探偵事務所に響いたのはつい先刻のこと。
其れはいつも唐突で、気配や前触れと云うものを一切齎さずに訪れる。
今回も、今までの例に漏れず不意に彼女(?)は扉より内にひっそりと佇んでいた。そして声を発した。扉開閉の音などありはしない。
「久し振りだねえ、八咫烏の姉ちゃん」
そんな鳴海の笑みを真正面から受け止めながら、八咫烏の使者は物音も立てずに鳴海が肘をついたままの机の前まで歩を進めると、何処から取り出したものか、粗末な封筒を卓上に置いた。
怪訝そうな表情を浮かべながら、鳴海は断りも入れずに其れを開封し、これまた粗末な紙には達筆な文字で、何処の誰かも知れぬ人間の簡単な略歴が羅列してあった。
名前、性別、年齢…。
興味がないから項目だけしか斜め読みして、鳴海は静かに八咫烏の使者を見上げた。
「で?」
「葛葉ライドウ14代目」
いつもの口調。
そう。まるで何でもないことの様に八咫烏の使者は告げた。告げて、鳴海を一瞬にして打ち殴った。
「―――――――――――― 何だと?」
たっぷり数秒は返答に窮して、鳴海は瞬時にして干上がった喉に唾を呑み込む。
そして聞き返した相手を間違えたとばかりに手にしたままの紙にもう一度眼を落とす。

葛葉 伊呂波。
葛葉一族直系の男児。17歳。
現在帝都にある「弓月の君高等師範学校」に就学中。

これだけ?
不可解な見聞に、鳴海があからさまに眉を寄せる。其れを見て、ようやく八咫烏の使者がくちを開いた。
「其れだけあれば充分な情報だと云えましょう」
断定的なモノの云い方を。
舌打ちしたいのを寸でのところで押し留め、「で?」と鳴海は代わりに再び尋ねた。
「コレが一体、俺にどう関係すると?」
「貴方の許に」
絶句。
断定的且つ拒否権すらも与えられぬ程の圧倒的強制力。
「何故俺の許に?」
「葛葉の使命を知らぬ忘れたとは申せはしまいでしょう。其の命には此処を拠点とするが効率がよい。志乃田とも連携のし易い地理です。間違っていましょうか?」
チッ。
ついに隠すことなく鳴海は舌打ちした。
この口ぶりはすでに決定事項を伝達する其れだ。
「厄介な面倒ごとは御免なんだけどね、俺は」
まだ逃れようとする。しかしそんなことは無駄だと判っているのか、八咫烏の使者は何の反応も言葉も返さなかった。其の代わり、まったく違ったことをくちにする。
「あの者を受け入れて頂くにあたって、留意して頂きたいことが御座居ます」
勝手にして。
ひらひらと手を振りながら、鳴海はチェアを回して八咫烏の使者へと背を向けた。しかし、
「あの者には惹かれぬ様に」
予想外を通り越して、まず有得る筈のない内容に、回転したチェアは其のまま八咫烏の使者へと向き直る。
「彼は、禍(まが)つ子です」
「……… はあ?」
聞き捨てならない云い方をする。14代目を襲名するだけあって実力はズバ抜けたものを持つであろう者を、よりにもよってそんな云い方はないのではないだろうか。
不快感を隠し切れずにいる鳴海は畳み掛ける様に問い質す。
「何なの其の云い方」
「気を害されたのならば謝罪致します。しかし、其のことに間違いはありません。

 あの子は、ただ他のものを… ひとであれ、ひとならざるものであれ、無性に惹きつけるのです。

 其れは本人が望む望まない関わらず、そうなるのでしょう。

 そして多大なる貢献を齎すと同時に、細く深い澄んだ切り傷として襲い掛かると思うのです」

唖然とする。
しかし八咫烏の使者の云いたいことが何となくだが読み込めて、鳴海は何だか酷く空虚な気持ちになった。
「ですから」
言葉を発せずにいる鳴海に、更に八咫烏の使者は重ねて云う。
「貴方にはそうならぬ様、常に意識して第三者であることを務めて頂きたく思います。しかし其れは容易でもないことを重々重ねて留意して下さい。

 眼、くち、髪、其の身体構成するすべてが、貴方を惑わすでしょう。

 お気をつけなさい。

 貴方は、其れに絡め取られない様、御留意の程を…」





馬鹿にしやがって。





何でわざわざそんな危険性の孕む俺みたいなところにコイツを遣した?
何でわざわざ意識してしまう様な云い方で警告を発した?

まるでそうなることを、狙っていたみたいじゃないか。





馬鹿にしやがって。





「………、 ? ぁ…?」
快感に惑わされて、うまく言葉を発せないままにライドウが鳴海を怪訝そうに見上げた。
嗚呼、この美しく穢れることを知らぬ幼子はこのことを知っているのかな?
含みある笑みを浮かべて、鳴海はライドウに深く深く口づける。
「な… るみ、さ…?」
「どうしたの?」
問われる前に問い掛ける。先手を取られたライドウは所在無さげに視線を彷徨わせた。
其れにクスクスと意地悪く微笑んでやると、引ける細い腰を掴んでより深く貫く。
「他のこと考える余裕なんて、なくしてあげるよ」
「あ、っあ、 ――――――――――――… ッ!」



初めて出逢った日のことを 覚えてる?



対峙した、あの日。
其の背負わされた肩書きにそぐわぬ容姿に、明らかに鳴海は度肝を抜かれたのだ。
容姿に。
雰囲気に。
ひっそりと扉の前に佇む姿は、静かを通り越して空虚な空洞を思わせる。しかし其れでいて絶えず其処に存在するのは掴みどころのない意思。
「初めて御目にかかります」
紡がれる言葉も、更に続いた言葉も、とても静かに鳴海の耳に響いた。
「初めまして、14代目葛葉ライドウ。八咫烏の姉ちゃんから話は聞いてるよ」
「はい」
「どう紆余曲折してウチってことになったのかは正直全然判んないんだけどー…、でもそうと決まった以上、寝食を共にする生活をする訳だから、まあ此処はヒトツ宜しく頼むよ。ね?」
いつも通りの笑顔を顔に張りつかせ、鳴海は立ち上がってライドウと新たに差し向かい、右手を出した。
一瞬ライドウがきょとんとした表情を浮かべた。
なんて事はない、普通の礼儀としての握手のつもりで差し出された鳴海の右手に、何をそう考えることがあるだろう。ライドウの其の不可思議な表情を察知した鳴海は不意に眉を寄せた。
「あ、…いえ、すいません。宜しくお願いします…」
そう云い、何事もなかったかの様に鳴海の手を握るライドウに、鳴海が依然として眉を寄せたまま顔を寄せた。
「あの、何か?」
「其れはこっちの台詞だよ」
「え」
「ひとに触れたことがないの君?」
「――――――――――――」
鳴海の言葉にライドウは何の反応も示さなかった。
「其れとも…

 ひとに触れられるのが怖いの」

其の瞬間のライドウの表情を、鳴海は忘れることが出来ないだろう。
一瞬。
ほんの一瞬だけ瓦解した無表情とゆう仮面から曝け出されたのは、泣いたこども。



嗚呼、八咫烏の云っていたことは 真実か ――――――――――――



きっと自身も気づいているに違いない。
だから彼は他とも一線を引いているのだろう。
其れを当たり前として。
其れに傷ついていると気づかないフリをして。





其れに気づいた瞬間 きっと 俺も堕とされた。





荒い息遣いの中で、ライドウが必死に鳴海に寄り縋ろうとする。
「な、なる… さん。 、なるみ さ… !」

ああ なんていとおしい こども

キリキリと背中に立てられた爪から生まれる痛みがかろうじて鳴海を現実に縛りつける。
何とゆう皮肉。
優しく彼に口付けを落としながら、鳴海は自嘲気味に微笑んだ。
偶発的か、自発的かなんぞ、知ったことじゃない。
鳴海は脳裏に繰返し響き渡る八咫烏の使者の無機質な声に苛立ちを覚える。



其の云い方が 気に入らないんだ。



こんな重責に身を置くだけでも相当であろうに、よりにもよって云うことが其れか。
鳴海とて元軍人として正義感からくる怒りも其れなりにあったのかも知れない。しかし今彼を焦がすのは一概に其れだけとは云い切れないでいた。
「ライドウ」
掠れた声で、襲名した名前を呼んでやる。
「ライドウ、ライドウ、ライドウ、 ………、伊呂波」
本当はもっと本名で彼を呼んでやりたいのに。
本当はもっと真実の彼に触れてやりたいのに。
嗚呼どうしてこうも彼は酷く遠くて、脆くて、空虚なんだろう。
もっと彼に自分を注いでやればいいのか。
もっと違う何かで彼を埋めてやればいいのか。
一体どうすればいいのか判らずに、結局は途方に暮れる。



嗚呼 そうか。



不意に鳴海は理解出来た気がした。
だからこそ惹かれるのかも知れない。空虚であるが故に、脆く頼りなく見えるが故に、周囲は自然と彼を埋めようとするかも知れぬ。其れは自分であったり他人であったり、はたまた全く異なったものであったりするのだろう。
現実は、多分きっともっと簡単なのではないか。



快楽から開放されて、ぐったりと瞼を閉じて眠りに落ちてゆくライドウを優しく見詰めながら、鳴海はそっと彼の艶やかな髪を撫でた。
「ねえ… ライドウ?」
恐らくはもう其の声は届いていないだろう。しかし其れでも鳴海は囁く様に言葉を紡いだ。
「君が今まで周囲の心無い者や大人に何て云われてきたかなんて俺が知る由もないけれど、でも、きっと其れはそんなに気に病むことではないと思うんだよ」
指に触れる髪はとても気持ちが良く、鳴海は情事後のたゆたう様な心地よい脱力感に包まれながら夢見心地に更に呟く。
「きっと皆深く考えすぎなんだ。君に惹かれるのは、君が魅力的なんだって単純に考えればいい。下手にややこしく考えてしまうから傷つかなくていいものまで傷つけてしまう。自分の気持ちまでも捻じ曲げて何が楽しいってゆうんだ。馬鹿馬鹿しい」
白くきめ細やかな頬に触れる。


嗚呼 いとおしい。


「君が好きだよ、伊呂波」
まるで壊れ物を扱う様に優しく頬を撫でる。
「ただ其れだけなんだ」
そうして触れるだけの口付けを落として鳴海も彼に寄り添って瞼を閉じた。
やがて訪れるのは、静かな眠り。
だが、不意にライドウの閉じた瞼のまつげが微かに震えた。其れが開かれることはなく… ただ一条の涙が頬を伝ってシーツを濡らした。





其のことを、鳴海は知る由もなかった。





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*何か自分、鳴海に告白させるの好きなのか?
しかも相手に聞かれない告白(意味あるのか)
ライドウもぐるんぐるん考えそうなフシがあるけど、
其れ以上に鳴海はぐるんぐるんしそうなんで、書いてて楽しい…!

20060508